2013年2月21日木曜日

窃盗  biginning of stealing

現在の夫である人との出会いで、夢にまで見た過食嘔吐のない日々。
少し幸せな気持ちでいられたのもきっと半年ぐらいの出来事だった記憶がある。
彼の一言で再発してからは、その症状はひどくなるばかりだった。

毎日、は当たり前、一日に2度、3度、身体は酷使されて行った。拒食症患者の様にいつも死と背中合わせではないが、動けなくなる程に胃を満たし、その量を嘔吐する、という行為は奇妙なだけでなく、確実に疲労を伴い、ある日嘔吐物と一緒に多量の血を吐いた。

かかり付けの医師に見てもらうものの、正直に全てを話せる事なく、今思えばニューヨークで名のある胃腸の専門医が、なぜ私が血を吐いてるのかなど容易に想像していただろうが、「自分の身体ぐらい大事にしなさい」と言われ、その言葉をかみしめて病院をあとにした。

吐血はそれなりにショックだった。異国の土地で、こんな奇妙な行為のために私は人生を棒に振るかもしれない、と恐怖を感じた。そしてその恐怖が私を決心させた。どれだけ太ってももう食べた物を吐かない、自分の身体は自分でしか守れない。
そんな思いで、なるべくカロリーの低い物を食べ、それを戻す事なく、日々がすぎて行った。今ここに一言で書く程、簡単な事ではなかったはずだが、それでも過食嘔吐のない時を久しぶりにおくれていた。今思えばそれはただ、臭い物に蓋をしただけの、根本の解決にはまるで至っていない、表面的解決だったけれど。

数ヶ月が過ぎた時、ひょんな事がきっかけで、同棲していたその男(現夫)が、他の女の人と付き合っている事を知ってしまった。まるでそんな事を予想していなかっただけに、なぜかこの人が私を裏切るわけはない、と信頼しきっていただけに、その動揺は膨大だった。

ニューヨークのアッパーウエストのジャパニーズレストランで彼らは働いていて知り合った。本人の口から語られる2人の「恋」の様子は、私の「生」を否定する程重くのしかかり、歩くのもままならない程弱ってしまった。私達が住むアパートから数ブロックしか離れていないそのレストランで、2人の仲睦まじい姿を通りすがりに見てしまった。見に行ったのかもしれない。

そしてその足で、ニューヨーカーに人気のゼイバースという高級スーパーマーケットに向かった。美味しいチーズやソースを買いに、時々通ったその店で、迷う事なく棚に並ぶ食料品を自分のバッグに入れた。そして店を出る時に店員に呼び止められた。

財布の中身と免許証を確認され、「なんでお金を持ってるのに盗んだのか」と聞かれたが答える事ができないまま、$60余りのその盗品を買い取るように要求され、ポラロイドカメラで写真を撮られ、「二度とこの店に来るな」と叩き出された。屈辱だった、そしてでも同時に「これが私なんだ」と行き着くところに行き着いたような安堵感を感じていた。

2人の働くジャパニーズレストランの前をもう一度通り、2人を確認する、そんな自傷行為の様な事をしてから、歩いて数分のアパートに戻った。
そして盗むはずだった食料を全てを胃に流し込むと、あれが自暴自棄というのだろう、もう吐血しても死んでもいい、どうにでもなれ、とトイレの便器に頭をうずめて泣いていた自分を今でもはっきり覚えている。

その日から、私の窃盗の日々が始まった。

2013年2月17日日曜日

過食嘔吐の日々

18歳で家を出て、21歳の時に父が他界、その後過食嘔吐が始まったのは22歳だったと思う。誰もがダイエットに夢中だったあの頃、どこかで華奢なモデルが「食べても吐けば大丈夫」と言っていたのを実行してみただけの、小さな始まりだった。

それはあっという間に自分ではコントロールできない奇妙なものに変わっていった。食べて吐くというよりは、吐くために食べる、そんな行為が日課となり、25歳で結婚した相手はそんな日課など知る由も無いまま28歳で離婚する事となった。

自分は狂ってしまった、と思っていた。普通にご飯が食べられない、今日こそは吐かない、とどれだけ誓っても、胃に少しでもものが入るとまるでスイッチが入ったかのように、動けなくなるほどに胃を一杯にしなければ終わる事がなく、そしてトイレに駆け込む。そんな卑怯な手を使って痩せて行く自分。
何年か前の多少太っていても、普通にご飯を食べ、ケラケラ笑っていた自分にはもう二度と戻れないのかもしれない、そんな恐怖と自己嫌悪の闇の中での何年間。

まだインターネットもない時代、何で目にしたのか記憶が定かではないけれど、自分のしている行為に「過食症」という名前がある事、そしてそれは「病気」だと言う事、アメリカには過食症専門の医者がいる、という事実。25歳で行った新婚旅行先のニューヨーク、どうしてもここに住みたい、住むに違いない、と後ろ髪を引かれる思いで帰国し、離婚に至ろうとしていたその頃。「アメリカに行けば、こんな自分を終わる事が出来るかも
しれない」と一筋の光を想像したのは、なんとなく覚えている。

離婚をし、弟に頭を抱える母をあとに、夢と希望だけを詰めて私はニューヨークへ旅立っ
た。何もかもが新鮮だった。全てがスタート地点だった中、あっけないほどに過食嘔吐は何の変化もなく私の生活の一部のままだった。

ある人との出会い。彼女にであった事で私の人生は変わっていった、と言っても過言ではない憧れのその人に、生まれて初めて、それもとても自然に自分の過食症を打ち明けると、「I have the same problem,I know great one. I 'm gonna introduse you」との意外な成り行きになぜか少しホッとしたのを覚えている。

彼女が紹介してくれた過食症専門のカウンセラー、30分で$200は当時の私には痛過ぎたが、そのカウンセラーに会ってから症状が良くなった彼女の話を聞いていただけに、藁をもつかむ気持ちで通っていた。やっぱりダメだ、と思ったのは、幼少時代の事を話していると、苦しく、悲しくなるのだが、その詳細をうまく伝えられるだけの英語力が当時の自分にはなかった。一番肝心な事を伝えられなくてはカウンセリングの意味はなく、やがて私の足は重くなり、カウンセリングが意味のある事とも思えなくなってしまっていた。

一方私のニューヨーク生活は一見華やいで見えた。この彼女を中心に素晴らしい友人に囲まれ、大好きだったニューヨークで、ニューヨーカーと集う毎日は充実していた。過食嘔吐が一向に変化がないどころか、以前よりもその食べる量、頻度、が多くなっていても、その一見華やいだ日々が帳消しにするかのように、日々は過ぎて行った。

渡米7年目、現在の夫に出会う。もう一度結婚する事があるとすれば「グリーンカード結
婚」しか考えられなかった当時、まして日本人との再婚は「ない」と言い切っていた。同
棲が始まり心を完全に許した頃に、自分の中に変化を感じた。「この人の前では本当の自
分でいたい」と思ったのかもしれない。自分で過食嘔吐がやめられるかもしれない、と何
となく思った。そして私の想像は当たった。

あれ程コントロール外だった過食嘔吐は嘘のように姿を消し、その代わりに体重が増えた。でもそれを幸せに感じた。太っても平気な自分を喜んでいた。「ああ、やっと普通の
人になれた」父が亡くなり、過食嘔吐が始まって既に13年が経っていた。

ニューヨークに行ってから、何年も体を動かさない日がなかった自分がある事がキッカケ
でジムにもダンススタジオにも行かなくなって数ヶ月、過食嘔吐がなくなった同時期だっ
た。今思えばワークアウトホーリックでもあったような私がそんな状況の中姿形が変わっ
た行くのは容易だったと思う。

 ある日彼(今の夫)が私の横っ腹をつかんで笑いながら言った。「すげー、横綱入ってき
た!!」そしてその晩から、また私の過食嘔吐が始まった。

その時はわからなかったけど、なぜそんな冗談一言で、やっと手を切れた過食嘔吐を始めてしまったのか。なんてセンシティブなんだ、と自分が嫌になったけど。

それ以前に、夫と出会って過食嘔吐がなくなった事がどれ程意味のある事 、かも理解していなかった。今思えば、どれ程彼を信頼し、安心し、自分をさらけ出していたのか。太っていても、痩せていても関係ない。この人はこのままの私を必要としてくれてる、そんな風にきっと思っていた。だから夫のあの一言は私を絶望させたのかもしれない。


何年も後に夫にそんな事実があった事を話すと、あれは冗談だよ、そんな事で...????と奇妙な顔をされたが、あれはなんだかずっと奥に隠していた何かを引きずり出されたような、そんな妙な感覚だった。

2013年2月6日水曜日

幼い頃 My childhood


4歳下の弟とごく普通の家庭に育った幼少期、出来の良い弟と比べられるのは日常茶飯事だった。勉強もスポーツも、何をやっても簡単に熟す弟、何をやってもパッとしない姉、それが母を含む大人たちの印象だったのだろう。

弟と比べられても、とりえがない、と言われても、怒るわけでも悲しむわけでもなく、ただひたすら生きていた私。でも本当は怒っていたし悲しかったのだろう。そんな感情さえ押し殺し、良い子だった幼少期。
母は厳しかったが毎日美味しい食事を作り、夜遅くまで私のために服を作り、家族のために身を粉にして働くこの完璧な母を、「悪者」にする術は、当時の私にはまるでなかった。出来の悪い娘に向かって「あんたなんか産まなきゃ良かった」という母も、私は何十年も責める事はなかった。その代わりに自分を責めた。「なんで産まれてきちゃったの」心の奥にいつもあったその言葉。

それでも一見平穏だった私の幼少期は、父のおかげだったかもしれない。仕事人だった父もまた厳しい人間だったが、私には甘かった。マイペースだった私は、母に否定されても父の存在で自分自身を肯定しようとしていたのかもしれない、と思う。

父が亡くなったその年、私の過食症との戦いが始まった。




I grew up in a Japanese common family with my  four years younger brother. It was everyday matter being compered with him who were trophy child.
He is the one whom done perfectly with no matter what he tried,sports, study. and I am the one who never been perfect for my parents.
That's How people's feeling including my mom.

Even if I was compered with my brother, even I was said that I was not special,I wasn't angry, I wasn't sad and just lived in my life. but I was angry and sad unconsciously 
i was just killing my all affections and tring to be a good child for my mom.

My mom was very strict and harsh to me,but at the same time she was great mother such as cooking great meal or sewing my dresses and working so heard as a perfect mother. so there was any space that I could  have said she was wrong, even when she said to me " I shouldn't have given birth to you."
I could't blame her untill I realized that something wrong with me, and instead blaming her I had blamed my self " why was I born,why am I alive?" Those questions were always in my mind. so painful..

My father was another strict one. The working person was very kind and sweet to me. That is why even I was denial by my mom, the being of him made me affirmable myself.

It was the year he passed away, I became a bulimic.