2013年8月17日土曜日

今やっと見えて来た事。

摂食障害も窃盗癖も、依存症という病気の根源は、幼少時の環境の影響が大きいらしく、私自身も、厳しく 一方では完璧だった母親との関係を思うと、それは容易に納得出来るものだった。

多分私自身のネイチャーは、マイペースで人が好きなだけの人間だったのかもしれないけど、無意識の中で母に認められるための自分を装い頑張り続けていた人生。

窃盗癖をディスクライブする時に、「リスクに見合わない盗みを繰り返す」というけれど、私が抱えたリスクは「全てを失う」といってもいい程の強烈なリスクにも関わらず、ここまでの道を歩いて来たのは、どういうことだったのだろう、と何年もぼんやりと考え続けていた。

今月の末、私と子供は離ればなれになるかもしれない、又は家族でアンダーグラウンドになり、子供達は学校さえも行けなくなるかもしれない。絶望の中で日々が過ぎて行く中、ひとつだけ確かな思いにたどりついた。

依存症というのは、簡単に言うと 愛に飢えた子供が、人間が、母の、他人の愛情を確かめるために、自分自身あるいは回りをも巻き込んで破壊し、これでもかこれでもか、と駄々っ子のように「愛を確認」するための病気だったのかもしれない、と思った。

この絶望の中で私が感じたのは、私を、私たち家族を支えてくれる人が、真剣に思ってくれている人がこんなにいる、と言う事。そして私は今までそれを知らなかったと言う事。

人間の意識は、90%は無意識、意識があるのはたったの10%らしい。私は多分90%の無意識の部分で「私は愛されてない」と思っていた、だからリスクが大きくなればなるほど、自分の崩壊も進んでいったのだろう。

愛する人達が私たちを救う為に書いてくれた手紙、そこには私の知らなかった友人達の愛が書き連ねてあった。そして私のこれまでの壮絶な日々は、ここに来るまで、ここに来なければ、本当の意味で終わらなかったのかもしれない、と今やっとそんなふうに思う。

色んな場所で、色んな人達に関わって来た。でもきっといつもアンコンディショナルな愛を求めていた様な気がする。このままの自分を愛して、とそんな意識はさらさらなかったけど、私のして来た事はそう言う事なのかもしれない。
そんな意味で「窃盗」は一番わかりやすい自滅で、そう考えると自分自身が気の毒に、同時に愛おしく思えて来た。


2013年8月12日月曜日

日本を出た本当の理由

ニューヨークで始まった窃盗は、日本への帰国、長女の出産、子育てを経て止まっていた。あの衝動はなんだったのか、と思うくらい、その感覚を思い出す事もしばらくはなかった。

もう来る事もないと思った衝動に襲われたのは長男を妊娠してからしばらくの、帰国後2年目ぐらいだったと思う。確か100円程のお菓子を折り畳んだベビーカーのフォローに入れ、店を出たその日から、たがが外れたかの様に、再び盗む事に明け暮れる日々が始まっていた。
ベビーカーの中にいる幼い長女、お腹に宿った無垢な命を感じながらの窃盗は、底が見えない程の罪悪感を私に浴びせていた。もうこれ以上落ちる所はない安堵感があったような気がする。

捕まるとその恐怖でしばらくはおさまる衝動も、時間の経過とともにまた始まる。そしてついに私は2人の幼い子供を残して、一ヶ月留置される事になった。あの時の後悔と恐怖は、今でも思い出すだけで吐きそうになる。
授乳していた胸はパンパンにはり、乳を絞りにトイレに入ると、担当さんと呼ばれる婦警に罵られ、取り調べの度に、警察に、検察に、「お前は馬鹿か、あんなかわいい子供がいて、なんでこんな事をしたんだ」と言われ続け、「最低の母親」のレッテルはその辺では見かけられない程のりっぱなものだった。
そしてこんな屈辱と後悔の元で、この先どんな事があろうとも、二度と自分が盗みに手を染める事はないと、100%信じる事ができた。
「強い意志さえあれば、やめられる。そして私はその強い意志をこの苦い経験で与えられたのだから」

突然消えた母を思う子供の気持ちだけを思いながら、長っかた30日は終わった。保釈され、慌ただしい年末の街を子供の名前を呼びながら走った。
母は泣き崩れ、娘は驚きと喜び、そして1才になったばかりの息子の記憶からは、私は消えていた。手を伸ばす母に、人見知りをして泣き叫ぶ息子を見て、「強い意志」は一層揺るぎないものになった。
年が空けてからの裁判で、判決は執行猶予付2年の懲役2年半をもらった。

その後も留置所での日々は朝晩頭を埋め尽くし、忘れる事はなかった。そのおかげで「強い意志」はいつもそこにあった。

永遠にあるはずだと信じていたその「強い意志」は2年程しか続かなかった。
警察は乳飲み子がいる事を理由に逮捕をせず、書類送検となり、在宅起訴をされる事になった。

2009年春、東京地方裁判所で実刑2年半の判決をもらい、裁判官の「前回の裁判で、もう二度としない、と言ったあなたの言葉は信じがたく、反省はみられない」という声を遠くに聞きながら「まったくその通りだ」と壊れすぎた自分を哀れんでいた。
あの時の「強い意志」はどこへいったんだ、私はここまで愚かな人間だったのか、と自問自答をしているうちに、「意志」ではどうする事も出来ない事に気がついていった。

精神科医「斎藤学」、やっとこの人に会える日が来た、とそう思ったのを覚えている。ニューヨークにいた頃にたどりついた一冊の本。家族機能研究所と呼ばれるこの機関で、斎藤医師は、様々な依存症は家族が家族として機能していない事から始まる、と日本全国からの患者の治療にあたっている。

摂食障害の権威でもある斎藤医師の本は、帰国後片っ端から読んだ。私の事を書いてあるかの様なその内容と、無骨な物言いの中の温かさに、会った事もないその精神科医に親近感を感じていた。
そして常に頭の隅にあった、ある著書の中の「過食症患者が窃盗癖を併存する事はよくある」という一行に、私の窃盗は病気なのかもしれない、病気ならこの医師が治してくれるかもしれない、と最後のかすかな希望を胸にやっと斎藤医師と繋がることができた。

デイケアと呼ばれる朝から晩までのプログラムに、乳飲み子と幼稚園児、小学生を持つ母親が毎日通うのは大変な事だった。それでも「強い意志」など幻とわかった今、選択の余地はなかった。

さいとうミーティングと呼ばれる、クリニックの一番のメインのグループミーティンで、自分の窃盗の話等を、見ず知らずの100人余りの患者の前で話をするようになってから、自分の中に変化を感じていった。自分を責め続ける事でバランスを保っていたかのような私の一部が、違う形に変わっていった、というか、ダメな自分でさえも受け入れ、愛せる様になっていった、という事なのか。
それはまだ、父が生きていた頃に味わっていた居心地と似ていた。

同時期に裁判は控訴審へ進み、それでも「実刑」という判決は覆る事なく、最高裁まで持ち込まれた。やっとたどり着けた安堵感と、裁かれる恐怖の狭間で、あっという間に月日は流れた。
最高裁には斎藤医師が、私の精神鑑定の結果、世間や司法では理解されない「窃盗癖」を患う患者の医師としての意見書を書いて下さった。
クリニックに通院する事で、ありのままの自分を初めて受け入れられ、深い所に変化を感じていた頃、最高裁での判決、実刑1年8ヶ月、は確定した。2009年12月、収監の通知は年明けに来るはずだった。

私の症状は明らかに回復に向かい、最後まで執行猶予がつくはず、と望みをかけていた夫、母は絶望の境地だった。子供達はどうなる?だれが私の変わりをできるのか?だれの頭も子供達の事でいっぱいだった。そして私は1年8ヶ月後に出所してくる自分を想像していた。

やっとたどり着いた安堵の場所は崩れ去り、自己嫌悪の固まりとなって子供達との再会に震えるみじめな自分を見た。家族がバラバラになり、不安の中で暮らした淋しそうな子供達の目を想像すると、自分を責めずにはいられなかった。自尊心などマイナス100ぐらいになっているだろう、その私はまたきっと自分を責め続け、窃盗の衝動に簡単に負かされるだろう、そう思うと刑務所に入るという結論が、あまりにも理不尽で意味がない、なんて事も思っていた。

朦朧とする中で、それでも迫る現実の話し合いの中、「1才の次男の面倒を見れる人はいない、施設に入れるしかない」と夫が言った時、私の心は決まった。

「私は刑務所には行かない、海外に出る。」

数日で刑法を調べ上げ、刑の時効というものがある事を知った。刑の時効は公訴時効と違い、海外に出ていても時効になる、と言う事も。
夫は「逃げる」なんて「卑怯」な事は出来ない、しかも子供を道づれにそんなリスクを犯せない。と頭から聞き入れる事はしなかった。当然と言えば当然の意見で、私も特に言葉にはしないものの、一番肝心な部分を共感してもらえない寂しさを夫に感じた。

そしてその日から、私は出国に向けての準備を始めた。回復しかけているやっかいな癖に再び襲われる疎ましさと、刑務所から帰る母を待つ子供達の切ない思いに比べれば、立ちふさがる壁などたいした事はない、と自分を奮い立たせていた。それでも恐怖に背中を押されている様な日々の中で、夫が自分も行く、いう決心を伝えて来た。

2010年2月7日、私たちは日本を発ちカナダへ来た。2月8日、私の収監予定日の前日だった。