2013年9月10日火曜日

自己破壊的行為

警察官に、検察官に、何度聞かれたであろう「おまえ、反省しているのか?」
正直な私は初め「よくわからない」と答え、チンピラの様な刑事を激怒させた事がある。

実刑になった裁判の控訴審を担当した銀座に事務所を構える木O弁護士は、「貴様、反省してねーだろー!」と机を蹴っ飛ばした。控訴審に向けて彼が作った資料には「この被告人は反省していないから同じ事を繰り返す、釘1本盗んで、どれだけの人がどれだけ困るのか私が教えてやりました」と
書かれていた。

この弁護士の話はまた後々して行くが、彼に「反省」を強要されていた同時期に私は斎藤医師の治療を受けていた。「反省してないと弁護士に怒られています」と話すと彼は笑って「あなたたちが盗むのは自己破壊のための行為だからねー、反省なんかするわけないでしょ、悪い事してるって思って盗んでるの?」と聞かれた。

「人のものは盗んではいけません」と子供でも知っている事だから、悪い事だとはわかっているけど、どちらかというと「悪い事だからやっている」、そんな感覚が近かった。

沢山の依存症患者を診て来た斎藤医師は、毒舌でも有名な医師だったが、時々遠くを見て「あなた達のおかしな行為は死なないためにあるんだから、いいんじゃないですか治らなくても。」というような類いの事をおっしゃっていた。

いつの日か、自分を愛せなくなり自己破壊行為に走る。摂食障害も窃盗も一番簡単に出来る依存症だから(私にとっては。アルコールはそれほど接点がなかったし、ギャンブルも興味なく、セックス依存には相手が必要だったり....) 今思えば、奇妙でやっかいな病だけれど、ごく普通の成り行きだった様な気もする。

では自己破壊的行為をやめるには何が効果的なのか。私が知らぬ間に斎藤医師からかけられた魔法は
「こんな最低な私も結構好き」と本気で思える様になった事だった。ちょっと客観的に見ると、自分のして来た事は滑稽で、気の毒で、でも私頑張って来たのよ、と自分を愛おしく思えるようになった時、
それまであった自分への怒り、親への怒り、他人への、夫への、全ての怒りが段々と消えて行ったかのような、「あー、私は怒ってたんだな〜」とよくわからないけどそんな気持ちを経験した。

怒り、今も全てが消え去ったわけではないだろうけど、きっとうまくつき合える様になったのかもしれない。生きていると理不尽で腹立たしい事も沢山あって、子育て中の私は一日の殆どを怒って過ごしているけれど、それと同じくらい「こんな人生も悪くない」と人生を楽しむ事が出来る様になってきたのかもしれない。

それにはやはり共感してくれる人の存在、そんな人々に沢山出会えた事が、今の自分を導いてくれたのだと確信している。


2013年8月17日土曜日

今やっと見えて来た事。

摂食障害も窃盗癖も、依存症という病気の根源は、幼少時の環境の影響が大きいらしく、私自身も、厳しく 一方では完璧だった母親との関係を思うと、それは容易に納得出来るものだった。

多分私自身のネイチャーは、マイペースで人が好きなだけの人間だったのかもしれないけど、無意識の中で母に認められるための自分を装い頑張り続けていた人生。

窃盗癖をディスクライブする時に、「リスクに見合わない盗みを繰り返す」というけれど、私が抱えたリスクは「全てを失う」といってもいい程の強烈なリスクにも関わらず、ここまでの道を歩いて来たのは、どういうことだったのだろう、と何年もぼんやりと考え続けていた。

今月の末、私と子供は離ればなれになるかもしれない、又は家族でアンダーグラウンドになり、子供達は学校さえも行けなくなるかもしれない。絶望の中で日々が過ぎて行く中、ひとつだけ確かな思いにたどりついた。

依存症というのは、簡単に言うと 愛に飢えた子供が、人間が、母の、他人の愛情を確かめるために、自分自身あるいは回りをも巻き込んで破壊し、これでもかこれでもか、と駄々っ子のように「愛を確認」するための病気だったのかもしれない、と思った。

この絶望の中で私が感じたのは、私を、私たち家族を支えてくれる人が、真剣に思ってくれている人がこんなにいる、と言う事。そして私は今までそれを知らなかったと言う事。

人間の意識は、90%は無意識、意識があるのはたったの10%らしい。私は多分90%の無意識の部分で「私は愛されてない」と思っていた、だからリスクが大きくなればなるほど、自分の崩壊も進んでいったのだろう。

愛する人達が私たちを救う為に書いてくれた手紙、そこには私の知らなかった友人達の愛が書き連ねてあった。そして私のこれまでの壮絶な日々は、ここに来るまで、ここに来なければ、本当の意味で終わらなかったのかもしれない、と今やっとそんなふうに思う。

色んな場所で、色んな人達に関わって来た。でもきっといつもアンコンディショナルな愛を求めていた様な気がする。このままの自分を愛して、とそんな意識はさらさらなかったけど、私のして来た事はそう言う事なのかもしれない。
そんな意味で「窃盗」は一番わかりやすい自滅で、そう考えると自分自身が気の毒に、同時に愛おしく思えて来た。


2013年8月12日月曜日

日本を出た本当の理由

ニューヨークで始まった窃盗は、日本への帰国、長女の出産、子育てを経て止まっていた。あの衝動はなんだったのか、と思うくらい、その感覚を思い出す事もしばらくはなかった。

もう来る事もないと思った衝動に襲われたのは長男を妊娠してからしばらくの、帰国後2年目ぐらいだったと思う。確か100円程のお菓子を折り畳んだベビーカーのフォローに入れ、店を出たその日から、たがが外れたかの様に、再び盗む事に明け暮れる日々が始まっていた。
ベビーカーの中にいる幼い長女、お腹に宿った無垢な命を感じながらの窃盗は、底が見えない程の罪悪感を私に浴びせていた。もうこれ以上落ちる所はない安堵感があったような気がする。

捕まるとその恐怖でしばらくはおさまる衝動も、時間の経過とともにまた始まる。そしてついに私は2人の幼い子供を残して、一ヶ月留置される事になった。あの時の後悔と恐怖は、今でも思い出すだけで吐きそうになる。
授乳していた胸はパンパンにはり、乳を絞りにトイレに入ると、担当さんと呼ばれる婦警に罵られ、取り調べの度に、警察に、検察に、「お前は馬鹿か、あんなかわいい子供がいて、なんでこんな事をしたんだ」と言われ続け、「最低の母親」のレッテルはその辺では見かけられない程のりっぱなものだった。
そしてこんな屈辱と後悔の元で、この先どんな事があろうとも、二度と自分が盗みに手を染める事はないと、100%信じる事ができた。
「強い意志さえあれば、やめられる。そして私はその強い意志をこの苦い経験で与えられたのだから」

突然消えた母を思う子供の気持ちだけを思いながら、長っかた30日は終わった。保釈され、慌ただしい年末の街を子供の名前を呼びながら走った。
母は泣き崩れ、娘は驚きと喜び、そして1才になったばかりの息子の記憶からは、私は消えていた。手を伸ばす母に、人見知りをして泣き叫ぶ息子を見て、「強い意志」は一層揺るぎないものになった。
年が空けてからの裁判で、判決は執行猶予付2年の懲役2年半をもらった。

その後も留置所での日々は朝晩頭を埋め尽くし、忘れる事はなかった。そのおかげで「強い意志」はいつもそこにあった。

永遠にあるはずだと信じていたその「強い意志」は2年程しか続かなかった。
警察は乳飲み子がいる事を理由に逮捕をせず、書類送検となり、在宅起訴をされる事になった。

2009年春、東京地方裁判所で実刑2年半の判決をもらい、裁判官の「前回の裁判で、もう二度としない、と言ったあなたの言葉は信じがたく、反省はみられない」という声を遠くに聞きながら「まったくその通りだ」と壊れすぎた自分を哀れんでいた。
あの時の「強い意志」はどこへいったんだ、私はここまで愚かな人間だったのか、と自問自答をしているうちに、「意志」ではどうする事も出来ない事に気がついていった。

精神科医「斎藤学」、やっとこの人に会える日が来た、とそう思ったのを覚えている。ニューヨークにいた頃にたどりついた一冊の本。家族機能研究所と呼ばれるこの機関で、斎藤医師は、様々な依存症は家族が家族として機能していない事から始まる、と日本全国からの患者の治療にあたっている。

摂食障害の権威でもある斎藤医師の本は、帰国後片っ端から読んだ。私の事を書いてあるかの様なその内容と、無骨な物言いの中の温かさに、会った事もないその精神科医に親近感を感じていた。
そして常に頭の隅にあった、ある著書の中の「過食症患者が窃盗癖を併存する事はよくある」という一行に、私の窃盗は病気なのかもしれない、病気ならこの医師が治してくれるかもしれない、と最後のかすかな希望を胸にやっと斎藤医師と繋がることができた。

デイケアと呼ばれる朝から晩までのプログラムに、乳飲み子と幼稚園児、小学生を持つ母親が毎日通うのは大変な事だった。それでも「強い意志」など幻とわかった今、選択の余地はなかった。

さいとうミーティングと呼ばれる、クリニックの一番のメインのグループミーティンで、自分の窃盗の話等を、見ず知らずの100人余りの患者の前で話をするようになってから、自分の中に変化を感じていった。自分を責め続ける事でバランスを保っていたかのような私の一部が、違う形に変わっていった、というか、ダメな自分でさえも受け入れ、愛せる様になっていった、という事なのか。
それはまだ、父が生きていた頃に味わっていた居心地と似ていた。

同時期に裁判は控訴審へ進み、それでも「実刑」という判決は覆る事なく、最高裁まで持ち込まれた。やっとたどり着けた安堵感と、裁かれる恐怖の狭間で、あっという間に月日は流れた。
最高裁には斎藤医師が、私の精神鑑定の結果、世間や司法では理解されない「窃盗癖」を患う患者の医師としての意見書を書いて下さった。
クリニックに通院する事で、ありのままの自分を初めて受け入れられ、深い所に変化を感じていた頃、最高裁での判決、実刑1年8ヶ月、は確定した。2009年12月、収監の通知は年明けに来るはずだった。

私の症状は明らかに回復に向かい、最後まで執行猶予がつくはず、と望みをかけていた夫、母は絶望の境地だった。子供達はどうなる?だれが私の変わりをできるのか?だれの頭も子供達の事でいっぱいだった。そして私は1年8ヶ月後に出所してくる自分を想像していた。

やっとたどり着いた安堵の場所は崩れ去り、自己嫌悪の固まりとなって子供達との再会に震えるみじめな自分を見た。家族がバラバラになり、不安の中で暮らした淋しそうな子供達の目を想像すると、自分を責めずにはいられなかった。自尊心などマイナス100ぐらいになっているだろう、その私はまたきっと自分を責め続け、窃盗の衝動に簡単に負かされるだろう、そう思うと刑務所に入るという結論が、あまりにも理不尽で意味がない、なんて事も思っていた。

朦朧とする中で、それでも迫る現実の話し合いの中、「1才の次男の面倒を見れる人はいない、施設に入れるしかない」と夫が言った時、私の心は決まった。

「私は刑務所には行かない、海外に出る。」

数日で刑法を調べ上げ、刑の時効というものがある事を知った。刑の時効は公訴時効と違い、海外に出ていても時効になる、と言う事も。
夫は「逃げる」なんて「卑怯」な事は出来ない、しかも子供を道づれにそんなリスクを犯せない。と頭から聞き入れる事はしなかった。当然と言えば当然の意見で、私も特に言葉にはしないものの、一番肝心な部分を共感してもらえない寂しさを夫に感じた。

そしてその日から、私は出国に向けての準備を始めた。回復しかけているやっかいな癖に再び襲われる疎ましさと、刑務所から帰る母を待つ子供達の切ない思いに比べれば、立ちふさがる壁などたいした事はない、と自分を奮い立たせていた。それでも恐怖に背中を押されている様な日々の中で、夫が自分も行く、いう決心を伝えて来た。

2010年2月7日、私たちは日本を発ちカナダへ来た。2月8日、私の収監予定日の前日だった。






2013年2月21日木曜日

窃盗  biginning of stealing

現在の夫である人との出会いで、夢にまで見た過食嘔吐のない日々。
少し幸せな気持ちでいられたのもきっと半年ぐらいの出来事だった記憶がある。
彼の一言で再発してからは、その症状はひどくなるばかりだった。

毎日、は当たり前、一日に2度、3度、身体は酷使されて行った。拒食症患者の様にいつも死と背中合わせではないが、動けなくなる程に胃を満たし、その量を嘔吐する、という行為は奇妙なだけでなく、確実に疲労を伴い、ある日嘔吐物と一緒に多量の血を吐いた。

かかり付けの医師に見てもらうものの、正直に全てを話せる事なく、今思えばニューヨークで名のある胃腸の専門医が、なぜ私が血を吐いてるのかなど容易に想像していただろうが、「自分の身体ぐらい大事にしなさい」と言われ、その言葉をかみしめて病院をあとにした。

吐血はそれなりにショックだった。異国の土地で、こんな奇妙な行為のために私は人生を棒に振るかもしれない、と恐怖を感じた。そしてその恐怖が私を決心させた。どれだけ太ってももう食べた物を吐かない、自分の身体は自分でしか守れない。
そんな思いで、なるべくカロリーの低い物を食べ、それを戻す事なく、日々がすぎて行った。今ここに一言で書く程、簡単な事ではなかったはずだが、それでも過食嘔吐のない時を久しぶりにおくれていた。今思えばそれはただ、臭い物に蓋をしただけの、根本の解決にはまるで至っていない、表面的解決だったけれど。

数ヶ月が過ぎた時、ひょんな事がきっかけで、同棲していたその男(現夫)が、他の女の人と付き合っている事を知ってしまった。まるでそんな事を予想していなかっただけに、なぜかこの人が私を裏切るわけはない、と信頼しきっていただけに、その動揺は膨大だった。

ニューヨークのアッパーウエストのジャパニーズレストランで彼らは働いていて知り合った。本人の口から語られる2人の「恋」の様子は、私の「生」を否定する程重くのしかかり、歩くのもままならない程弱ってしまった。私達が住むアパートから数ブロックしか離れていないそのレストランで、2人の仲睦まじい姿を通りすがりに見てしまった。見に行ったのかもしれない。

そしてその足で、ニューヨーカーに人気のゼイバースという高級スーパーマーケットに向かった。美味しいチーズやソースを買いに、時々通ったその店で、迷う事なく棚に並ぶ食料品を自分のバッグに入れた。そして店を出る時に店員に呼び止められた。

財布の中身と免許証を確認され、「なんでお金を持ってるのに盗んだのか」と聞かれたが答える事ができないまま、$60余りのその盗品を買い取るように要求され、ポラロイドカメラで写真を撮られ、「二度とこの店に来るな」と叩き出された。屈辱だった、そしてでも同時に「これが私なんだ」と行き着くところに行き着いたような安堵感を感じていた。

2人の働くジャパニーズレストランの前をもう一度通り、2人を確認する、そんな自傷行為の様な事をしてから、歩いて数分のアパートに戻った。
そして盗むはずだった食料を全てを胃に流し込むと、あれが自暴自棄というのだろう、もう吐血しても死んでもいい、どうにでもなれ、とトイレの便器に頭をうずめて泣いていた自分を今でもはっきり覚えている。

その日から、私の窃盗の日々が始まった。

2013年2月17日日曜日

過食嘔吐の日々

18歳で家を出て、21歳の時に父が他界、その後過食嘔吐が始まったのは22歳だったと思う。誰もがダイエットに夢中だったあの頃、どこかで華奢なモデルが「食べても吐けば大丈夫」と言っていたのを実行してみただけの、小さな始まりだった。

それはあっという間に自分ではコントロールできない奇妙なものに変わっていった。食べて吐くというよりは、吐くために食べる、そんな行為が日課となり、25歳で結婚した相手はそんな日課など知る由も無いまま28歳で離婚する事となった。

自分は狂ってしまった、と思っていた。普通にご飯が食べられない、今日こそは吐かない、とどれだけ誓っても、胃に少しでもものが入るとまるでスイッチが入ったかのように、動けなくなるほどに胃を一杯にしなければ終わる事がなく、そしてトイレに駆け込む。そんな卑怯な手を使って痩せて行く自分。
何年か前の多少太っていても、普通にご飯を食べ、ケラケラ笑っていた自分にはもう二度と戻れないのかもしれない、そんな恐怖と自己嫌悪の闇の中での何年間。

まだインターネットもない時代、何で目にしたのか記憶が定かではないけれど、自分のしている行為に「過食症」という名前がある事、そしてそれは「病気」だと言う事、アメリカには過食症専門の医者がいる、という事実。25歳で行った新婚旅行先のニューヨーク、どうしてもここに住みたい、住むに違いない、と後ろ髪を引かれる思いで帰国し、離婚に至ろうとしていたその頃。「アメリカに行けば、こんな自分を終わる事が出来るかも
しれない」と一筋の光を想像したのは、なんとなく覚えている。

離婚をし、弟に頭を抱える母をあとに、夢と希望だけを詰めて私はニューヨークへ旅立っ
た。何もかもが新鮮だった。全てがスタート地点だった中、あっけないほどに過食嘔吐は何の変化もなく私の生活の一部のままだった。

ある人との出会い。彼女にであった事で私の人生は変わっていった、と言っても過言ではない憧れのその人に、生まれて初めて、それもとても自然に自分の過食症を打ち明けると、「I have the same problem,I know great one. I 'm gonna introduse you」との意外な成り行きになぜか少しホッとしたのを覚えている。

彼女が紹介してくれた過食症専門のカウンセラー、30分で$200は当時の私には痛過ぎたが、そのカウンセラーに会ってから症状が良くなった彼女の話を聞いていただけに、藁をもつかむ気持ちで通っていた。やっぱりダメだ、と思ったのは、幼少時代の事を話していると、苦しく、悲しくなるのだが、その詳細をうまく伝えられるだけの英語力が当時の自分にはなかった。一番肝心な事を伝えられなくてはカウンセリングの意味はなく、やがて私の足は重くなり、カウンセリングが意味のある事とも思えなくなってしまっていた。

一方私のニューヨーク生活は一見華やいで見えた。この彼女を中心に素晴らしい友人に囲まれ、大好きだったニューヨークで、ニューヨーカーと集う毎日は充実していた。過食嘔吐が一向に変化がないどころか、以前よりもその食べる量、頻度、が多くなっていても、その一見華やいだ日々が帳消しにするかのように、日々は過ぎて行った。

渡米7年目、現在の夫に出会う。もう一度結婚する事があるとすれば「グリーンカード結
婚」しか考えられなかった当時、まして日本人との再婚は「ない」と言い切っていた。同
棲が始まり心を完全に許した頃に、自分の中に変化を感じた。「この人の前では本当の自
分でいたい」と思ったのかもしれない。自分で過食嘔吐がやめられるかもしれない、と何
となく思った。そして私の想像は当たった。

あれ程コントロール外だった過食嘔吐は嘘のように姿を消し、その代わりに体重が増えた。でもそれを幸せに感じた。太っても平気な自分を喜んでいた。「ああ、やっと普通の
人になれた」父が亡くなり、過食嘔吐が始まって既に13年が経っていた。

ニューヨークに行ってから、何年も体を動かさない日がなかった自分がある事がキッカケ
でジムにもダンススタジオにも行かなくなって数ヶ月、過食嘔吐がなくなった同時期だっ
た。今思えばワークアウトホーリックでもあったような私がそんな状況の中姿形が変わっ
た行くのは容易だったと思う。

 ある日彼(今の夫)が私の横っ腹をつかんで笑いながら言った。「すげー、横綱入ってき
た!!」そしてその晩から、また私の過食嘔吐が始まった。

その時はわからなかったけど、なぜそんな冗談一言で、やっと手を切れた過食嘔吐を始めてしまったのか。なんてセンシティブなんだ、と自分が嫌になったけど。

それ以前に、夫と出会って過食嘔吐がなくなった事がどれ程意味のある事 、かも理解していなかった。今思えば、どれ程彼を信頼し、安心し、自分をさらけ出していたのか。太っていても、痩せていても関係ない。この人はこのままの私を必要としてくれてる、そんな風にきっと思っていた。だから夫のあの一言は私を絶望させたのかもしれない。


何年も後に夫にそんな事実があった事を話すと、あれは冗談だよ、そんな事で...????と奇妙な顔をされたが、あれはなんだかずっと奥に隠していた何かを引きずり出されたような、そんな妙な感覚だった。

2013年2月6日水曜日

幼い頃 My childhood


4歳下の弟とごく普通の家庭に育った幼少期、出来の良い弟と比べられるのは日常茶飯事だった。勉強もスポーツも、何をやっても簡単に熟す弟、何をやってもパッとしない姉、それが母を含む大人たちの印象だったのだろう。

弟と比べられても、とりえがない、と言われても、怒るわけでも悲しむわけでもなく、ただひたすら生きていた私。でも本当は怒っていたし悲しかったのだろう。そんな感情さえ押し殺し、良い子だった幼少期。
母は厳しかったが毎日美味しい食事を作り、夜遅くまで私のために服を作り、家族のために身を粉にして働くこの完璧な母を、「悪者」にする術は、当時の私にはまるでなかった。出来の悪い娘に向かって「あんたなんか産まなきゃ良かった」という母も、私は何十年も責める事はなかった。その代わりに自分を責めた。「なんで産まれてきちゃったの」心の奥にいつもあったその言葉。

それでも一見平穏だった私の幼少期は、父のおかげだったかもしれない。仕事人だった父もまた厳しい人間だったが、私には甘かった。マイペースだった私は、母に否定されても父の存在で自分自身を肯定しようとしていたのかもしれない、と思う。

父が亡くなったその年、私の過食症との戦いが始まった。




I grew up in a Japanese common family with my  four years younger brother. It was everyday matter being compered with him who were trophy child.
He is the one whom done perfectly with no matter what he tried,sports, study. and I am the one who never been perfect for my parents.
That's How people's feeling including my mom.

Even if I was compered with my brother, even I was said that I was not special,I wasn't angry, I wasn't sad and just lived in my life. but I was angry and sad unconsciously 
i was just killing my all affections and tring to be a good child for my mom.

My mom was very strict and harsh to me,but at the same time she was great mother such as cooking great meal or sewing my dresses and working so heard as a perfect mother. so there was any space that I could  have said she was wrong, even when she said to me " I shouldn't have given birth to you."
I could't blame her untill I realized that something wrong with me, and instead blaming her I had blamed my self " why was I born,why am I alive?" Those questions were always in my mind. so painful..

My father was another strict one. The working person was very kind and sweet to me. That is why even I was denial by my mom, the being of him made me affirmable myself.

It was the year he passed away, I became a bulimic. 

2013年1月31日木曜日

依存症という病気 Illness of Addiction



依存症という病気をよく知っている日本人は少ないかもしれない。

一般的によく知られている アルコール依存症 を始め、ギャンブル依存症、買い物依存症、セックス依存症、そして私も患った摂食障害、窃盗壁、知らない人は「自分の弱さを病気のせいにするな」と激怒するが、これらの依存症は 意志が弱いから治らない という様な代物ではに事を、どうか多くの人に理解して欲しい。ここに依存する事で、生きている という事をどうにか保っている、心なのか脳なのか、確実に何かが壊れてしまっている、それが依存症という病気だという事。



そしてそんな病気になってしまう大きな原因は、簡単に言うと「自分を好きになれない環境」に幼い頃身をおかなければならなっかったから。

ありのままの自分を受け入れてもらえなかったから、自分自身を受け入れられない、頑張って生きているうちに、目に見えない何かが壊れてしまっていた、そんな感じだと思う。

私は、といえば、自分の中の何かが壊れていた事なんて、あの日警察がうちに来るまでは実感がなかったのかもしれない。ずっと生きにくかった。どうしてこんな風に生きにくいのだろう、と悩むこともあった。でもそれは自分が悪いから
だ、という結論にいつも至る。自分が足りない人間だから、こうなるんだ、と全てを解決してきた。そしてそれは 壊れていた何かに、さらに拍車をかけていたのかもしれない。

私の摂食障害が始まったのは 今から既に30年近く前の日本。今でこそ「摂食障害」「過食症」と聞けば多くの日本人はその概要を全く知らない事はない(根底の問題を理解している人は少ないが)。もし時代が違っていれば、もう少し自分自身にも 世間にも 知識と理解があれば、こんなに長い道のりを歩く事はなかったのかもしれない。

自分がおかす奇妙な行動を、自分を責める事で折り合いをつけ、長い間自分自身に自己懲罰を与えてきたかのような人生。そこに微かな光が見えたような気がしたのは もうそれ以上落ちる場所がないほどに落ちた時、両手に掛け替えのない我が子の寝顔を見た時だった。

自分では変えられない自分に気付き、依存症という病の恐ろしさを知り、やっとたどり着いた斎藤学医師、彼との出会いがなければ、私は今頃冷たい刑務所の床の上で愛する我が子を想い涙を流しながら 自暴自棄の黒い影に身を任せていただろう。

There may be few Japanese knowing the disease called addiction well.

 Addiction is known generally such as alcoholic, gamble addiction, shopping addiction, sexual addiction and  eating disorder, kleptomania which I sufferd from, 
the person who do not know about addiction fly into a rage says " Do not attribute your weekness to the disese".

but I want you to understand that these addictions are not such things that not be cured becouse will is week. 
keeping its life depend on the addiction. whether it is broken a heart whether it is brain which is broken for sure is the illness called the addiction.

A big cause becoming the disease is make it shortly " they had to grow up such the environment that can not love themselves." They were not accepted as who really they were, and becoming they can not accept themselves either.

and start struggling and try to be exist thier life so hard.
One day they realize something is wrong, something is broken I guess that's how it is.
I guess that's how it is.

In my case, There  might not be actual feeling until the police beat on the day. 
It was hard to grow all the time and wondering what was wrong with me.
but it always lead to a conclusion to be because myself is bad, because myself was as insufficient human being. I solved all when like that.
and it might accelerate something which failed more.

It is already Japan nearly 30 years ago now that my eating disorder began. Many Japanese may know the summary really if they hear it with "eating disorder" "bulimia" in now (there are few people understanding the problem of the root). If both oneself and the world have knowledge and understanding a little more if the times are different, I might not walk the long way so much.

The life that I settled by the strange action that oneself committed by blaming myself and seemed to give myself in self-punishment for a long time. 
When it fell so that there was no longer a place to fall into anymore, it was time when it watched the sleeping face of irreplaceable our child in both hands that I had a feeling that it showed dim light there. 

I noticed myself who was not changed by myself and knew the terror of the disease called the addiction, at last I arrive Dr,Saito. 
without reaching him and to had him treat me, I might be on the cold floor of a prison,and tears by thinking of my precious children.
and leave the bady to a desperate black shadow right now.